2017年3月11日土曜日

新生国術館40周年記念式典に向けて

来たる4月30日、長拳螳螂門総本部である台湾の新生国術館の設立40周年記念式典が開催される。
九州分会の表演メンバーの1人として参加させていただくことになり、お目汚しにならないように練習に励んでいる。

表演は、白猿偸桃という套路を行う。低い姿勢で腕や肘を振り回す、力強い印象だ。
これを学んだのが1月末。あとはほぼ毎日、個人練習で磨いている。家にいるときは台所で、近所の体育館に行ければ武道室を借りて10回通し。
套路だけやっても意味がないので、摔手や架式も一緒に行う。
この寒い中、汗ブルブルかいてシャツいっちょだ。

動きは覚えた。拍は良い音出てるし、少ない練習期間の割には我ながら結構動きいいんじゃない、と思っていたのだが、見る人が見ればやはり評価は厳しかった。
指摘を受けたときは軽く落ち込んだりもしたのだが、練習するしかない。
同じ箇所を次にまた言われないように、散漫にならないように気をつけて練習を繰り返している。

功夫の練習をするときは、鏡を見ないようにしている。必要な動きはすべて、自分の体が教えてくれると思っている。
鏡を見ると、頭の中で考えた「正しい動き」と自分の実際の動作を比較してしまう。自分の体の信号よりも、理屈を優先させてしまうのだ。
そういう練習が大切なことも理解はしている。が、例えばゆうべYoutubeで見たどこかの達人のカッコいい動きは、その人のキャリア、年齢、体格だからこその動きであり、その人ならではのものだ。そういうバックボーンが全く違う僕が真似をしても意味がない。角度がどうだ、タイミングがどうだと同じように合わせても、なぜそうなのか、必然性まで深く理解することなく、上手に真似できました、で終わってしまう恐れがある。

必要なことは、自分の体に聴く。その態勢で本当に突けるか、蹴れるか、投げることはできるか、かわせるのか、変な重心になっていなかったか、足が疲れたからと雑な動きになっていないか、etc。
鏡に写る自分の姿を見ながら動くよりも、自分の体が発する信号を拾い上げ、動きの精度を高めていく、そして目の前に呼び出したバーチャルリアリティな仮想敵を見ながら動くほうが、今の自分のは必要と考えている。

という考えで、今日も近所の体育館で汗を流してきたのだが、ふと壁に写る自分の影を見てしまった。で、思ったのは、あ、これは下手くそだ。ということ。
影ってのがよかったのだろうな。どこか体の一部分にピンポイントに意識が持っていかれることなく、全体を漫然と把握できた。
例えば腕だけ、足だけ、と切り出せば、そこそこの動きはできているみたいだ。
が、動きから迫力が伝わらない。これはなんでだろう・・・気迫の問題かな。


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